信じて裏切られたからうつになった。だから人を信じないのは正しい?
半分正解で、半分間違いです。
まず正解の方は、『人間は最初から間違いを犯す生き物だから、過信するべきではない』ということです。そして間違いの方は、『であるからして、過信するべきではないが、信用しなければ何も始まらない』からです。
信じて裏切られたからうつになった。だから人を信じないのは正しいか?
重いと感じる人間関係はうつの敵。そんな重荷は降ろすが勝ち – Inquiry. |
うつの時、一人になるのは良いのか。それとも悪いのか。 – Inquiry. |
と併せて考えていきたい。
『人間不信になった』という言葉を、私の周りでも発する人間はよくいた。だが、彼、彼女らが本当にその言葉の意味を理解しているかどうかは定かではない。単純に、『間違った言葉の使い方』をしている事実がよくあるように、同じようにこれについても、
は、定かではないのだ。
人を信じた。だが裏切られた。だからもう信じない。人間不信になったから。
人間関係に嫌気がさし、誰も信じられなくなって、生きるのもつらくなり、何もかもが面倒になった。そういう人は案外大勢いるものだ。
では、ここで一気に視点を変えてみよう。『周りに案外大勢いる』事実がある。そして、『
』という法則がある。これは別名、『 』と言われていて、例えば、
という事実があるように、この世のあらゆることが、大体80:20で説明できる、という法則のことである。75:25でも、細かく言えばきりがないが、しかし大体がそうなっているのだ。
そう考えると、確かにそうだろう。ビル・ゲイツ、ウォーレン・バフェット、ラリー・ペイジにセルゲイ・ブリン、柳井正に孫正義。誰もが知るこのような大富豪はもちろん、名前もよく知らない大富豪は世の中にゴロゴロいる。
皇族や資産家、アラブのオイルマネーで大富豪となった人々はどうだ。シャンデリアにダイヤモンドが使われ、私有地に子供の車が何台も置いてあったのをテレビで見た。
一方、途上国では子供が裸でゴミ山を歩き回り、街中で大便をして、ハエのたかったスープや肉を食べ、笑顔で走り回っている。
サラリーマンがいて、内職をする人がいて、懲役囚がいて、病人がいて、貧乏に悩む人がいて、浮浪者として生きる人がいて、
彼らを、もちろん一辺倒に切り捨てることはできない。20%側の人間には腐った人間もいて、拝金的で、倫理が破たんした、ろくでもない人間もいる。
だが例えば、ドイツの詩人、ゲーテがこう言い、
フランスの哲学者、デカルトがこう言うように、
やはり、数が多いからといって、その方向にいる人が正しい判断をしているとは限らないのである。
ということは、人間不信になった、ということを言う人が『周りに案外大勢いる』という事実を考えた時、もしかしたら、その『人間不信になった』という発言の意味は、あまりないのかもしれない。むしろ、なぜ『いや、ある』と言い切れるのか。なぜその意見の正当性に自信があるのか。それが本当に正しい意見だと証明できるだろうか。
例えば、親友に恋人を寝取られたとしよう。それで人間不信になったとしよう。では、その人たちは、『人間』だったのではないだろうか。それなら、
だろう。
と思った人は、どうやら人間を過信しているらしい。『そんなことをするのは人間として考えられない』と思うから、ここに悩みが発生するのである。
『『中国古典』の教え』の『史記』にはこうある。
こちらが調子のいい時は放っておいても人は集まるが、落ち目になると、さっと去っていく。遥か昔から今において、変わることのない愚かな習性である。
本は続けてこう言う。
だが、初めからそれが人情だと心得ていれば、人が寄ってきたからといって喜ぶこともないし、去っていったからといって嘆くこともないのである。
なのだ。『過大評価』をするから、そのギャップに対して失望し、心を痛めるのだ。
美輪明宏は言った。
多くの偉人も、こう口を揃える。
つまり、『人間不信になった』ではない。
ということを一つ、覚えておきたいのである。
自分だって失敗はするだろう。相手だって失敗はするに決まっている。この間私は、猫がジャンプに失敗して転落する映像を見た。失敗しない生命を客観的に見ると、どこか愛らしく、尊ささえ覚える。ロボットの様に絶対にミスしない冷徹な世界は、どこか味気ないとは思わないだろうか。
渦中にいる間は、そういう視野を持てないかもしれない。だが、死ぬときにはこの世の一切と、お別れだ。もしかしたらその時、波乱に満ちた人生であるほど、悔いなく死ねるのかもしれない。
小説家、吉川栄治はこう言っている。